王様は裸じゃないか。      指差す子供もちんこ丸出し。


by bbh_x

カテゴリ:歴史遊戯( 3 )

後醍醐

後醍醐天皇ら籠城の建物か 京都・笠置山で遺構発見 [ 12月20日 18時40分 ]
共同通信

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは20日、京都府笠置町の史跡笠置山で、鎌倉時代末期の元弘の変で倒幕を計画、幕府側に発覚したため後醍醐天皇らが立てこもった笠置寺の一部とみられる建物や空堀の跡、焼土層が見つかったと発表した。
 一帯は元弘の変で焼き払われたとの記録があり、同センターは「焼土層は記録とも合致する。出土した土器などは山中で多くの人が暮らしたことを示し、後醍醐天皇を支える勢力があったことを物語る」と話している。
 史跡の約500平方メートルを調査し、南北3・1メートル、東西6・3メートルと推測される建物の柱穴6カ所を確認。ほかにも1棟の建物跡があった。同センターはいずれも笠置寺の一部とみている。
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by BBH_x | 2005-12-20 19:26 | 歴史遊戯

蘇我入鹿宅

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<甘樫丘東麓遺跡>蘇我入鹿邸宅跡か 奈良・明日香村で発掘 [ 11月13日 20時44分 ]

 7世紀前半に権勢をふるった蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅があったと推定されている甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(奈良県明日香村)で、谷を整地した上に建てられた建物跡や焼け土などが見つかった。13日発表した奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、整地は7世紀前半に行われた可能性が高く、遺跡内で建物跡が確認されたのは初めて。

 大化の改新(645年)の始まりとされるクーデターで入鹿が暗殺された後、蝦夷が火を放ったとされる邸宅の存在がより現実的になり、地形的な特徴から日本書紀が記す入鹿の邸宅「谷(はさま)の宮門(みかど)」の一部との見方が有力になっている。

 国営公園の整備に伴い、約725平方メートルを調査したところ、谷筋の尾根を削って低い部分を埋め立てる大規模な整地を行い、平たん地を造っていたことが判明した。整地土には7世紀前半の土器が多量に含まれていた。

 平たん地で5棟の掘っ立て柱建物の跡と、塀跡(長さ約12メートル分)を確認した。うち、ほぼ全体が確認された建物は10.5メートル×3.6メートル。近くの溝(長さ約3メートル、幅約80センチ)に、焼け土と炭が残っていた。

 調査面積が限られているため、建物は7世紀代のものとしか特定できないが、94年に今回の調査地の東隣でも、焼けた建築部材や土器が大量に見つかっていることや、一等地であったことなどから、同調査部は「蘇我氏の邸宅跡の可能性が高まった。今後の調査で年代を確定し、全体像を解明したい」としている。

 調査地は蝦夷の父、馬子の邸宅跡とみられる島庄(しまのしょう)遺跡の北西約1.3キロ。日本書紀によると、蝦夷・入鹿親子は644年、甘樫丘に家を建て並べ、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせた。「城柵(きかき)」や武器庫を備え、番兵が警備したという。中大兄皇子(後の天智天皇)らが645年6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で入鹿を切り殺し、翌13日、蝦夷は甘樫丘の邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとされる。

 現地見学会は16日午前10時から午後3時まで。【林由紀子、山成孝治、大森顕浩】

 ▽和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)の話 日本書紀は7世紀後半の甘樫丘について記しておらず、見つかった建物跡は7世紀前半から半ばのものとみていいのではないか。しかし、建物規模が小さく、入鹿の「谷の宮門」だったとしても主要部分ではなく付属施設だろう。今後の調査で核心部分が判明することを期待したい。
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by bbh_x | 2005-11-16 10:56 | 歴史遊戯
古代の国道、上ツ道を確認 奈良・壬申の乱の舞台 [ 11月01日 10時16分 ]
共同通信

 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で1日までに、古代の国道の一つ「上ツ道」とみられる7世紀の盛り土状の遺構が見つかった。調査した同市教委によると、上ツ道の遺構が確認されたのは初めて。
 上ツ道は、既に発掘された中ツ道や下ツ道などと並び、奈良盆地を南北に走る当時の幹線道路。
 3本の道路は、日本書紀に大海人皇子と大友皇子が皇位を争った壬申の乱(672年)の舞台として登場。「(大海人皇子軍が)箸墓(はしはか)のほとりで戦い、近江朝廷軍を撃退した」と記されており、同市教委は「今回の現場付近も戦場だったのだろう」と話している。
 同市教委が卑弥呼(ひみこ)の墓との説もある箸墓古墳の北東隅近くで、約370平方メートルを発掘調査。南北方向に続く固く締まった盛り土(高さ40センチ、幅6メートル以上、長さ3メートル以上)を確認した。
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大化改新から壬申の乱あたりは、今、一寸凝っている。
鎌足と天武天皇の関係は定説の中からでも、もっと面白いシチュエーションが見て取れる。
ふつーに日本書紀を読むだけで、「定説」とは全然辻褄の合わない記述があるのに、誰も「定説」に異議を唱えないのはどういう訳か。

ゴッドハンドの生まれる素地は、こんなところにある。
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by bbh_x | 2005-11-02 18:38 | 歴史遊戯