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by bbh_x

蘇我入鹿宅

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<甘樫丘東麓遺跡>蘇我入鹿邸宅跡か 奈良・明日香村で発掘 [ 11月13日 20時44分 ]

 7世紀前半に権勢をふるった蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅があったと推定されている甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(奈良県明日香村)で、谷を整地した上に建てられた建物跡や焼け土などが見つかった。13日発表した奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、整地は7世紀前半に行われた可能性が高く、遺跡内で建物跡が確認されたのは初めて。

 大化の改新(645年)の始まりとされるクーデターで入鹿が暗殺された後、蝦夷が火を放ったとされる邸宅の存在がより現実的になり、地形的な特徴から日本書紀が記す入鹿の邸宅「谷(はさま)の宮門(みかど)」の一部との見方が有力になっている。

 国営公園の整備に伴い、約725平方メートルを調査したところ、谷筋の尾根を削って低い部分を埋め立てる大規模な整地を行い、平たん地を造っていたことが判明した。整地土には7世紀前半の土器が多量に含まれていた。

 平たん地で5棟の掘っ立て柱建物の跡と、塀跡(長さ約12メートル分)を確認した。うち、ほぼ全体が確認された建物は10.5メートル×3.6メートル。近くの溝(長さ約3メートル、幅約80センチ)に、焼け土と炭が残っていた。

 調査面積が限られているため、建物は7世紀代のものとしか特定できないが、94年に今回の調査地の東隣でも、焼けた建築部材や土器が大量に見つかっていることや、一等地であったことなどから、同調査部は「蘇我氏の邸宅跡の可能性が高まった。今後の調査で年代を確定し、全体像を解明したい」としている。

 調査地は蝦夷の父、馬子の邸宅跡とみられる島庄(しまのしょう)遺跡の北西約1.3キロ。日本書紀によると、蝦夷・入鹿親子は644年、甘樫丘に家を建て並べ、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせた。「城柵(きかき)」や武器庫を備え、番兵が警備したという。中大兄皇子(後の天智天皇)らが645年6月12日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で入鹿を切り殺し、翌13日、蝦夷は甘樫丘の邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとされる。

 現地見学会は16日午前10時から午後3時まで。【林由紀子、山成孝治、大森顕浩】

 ▽和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)の話 日本書紀は7世紀後半の甘樫丘について記しておらず、見つかった建物跡は7世紀前半から半ばのものとみていいのではないか。しかし、建物規模が小さく、入鹿の「谷の宮門」だったとしても主要部分ではなく付属施設だろう。今後の調査で核心部分が判明することを期待したい。
by bbh_x | 2005-11-16 10:56 | 歴史遊戯